雪月花
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その43 「花を飾るということ 3 ”平安・王朝人の花” 」

 

平安時代 ~王朝人の花~

 

「 勾欄(こうらん)のもとに あおき瓶(かめ)のおほきなるをすえて 

            桜のいみじうおもしろき枝の 五尺ばかりなるを、

                いと多くさしたれば、 勾欄の外まで 咲きこぼれたる 

                                     「枕草子」清少納言

 

王朝文化が隆盛した平安時代、

まだ日本には室内に花を生けるという習慣があまりありませんでした。

季節に咲き競う花々は身近のいたるところあり、

あえて飾る必要がなかったのかもしれません。

 

 

 

 

 

季節の移り変わりの風情を楽しんだ人々は、

野に出て山の風に当たり

揺れる草花を眺め・触れ・摘んでは

歌を詠む題材としました。

 

そしてこの頃より、

植物が暮らしの内部へと取り込まれていきます。

前栽(せんざい)」とは、

庭先に四季の草花を植えることですが、

このような仕立てが風流人の間で流行していきました。

 

上記「枕草子」二十三段の一節は、

日本人が暮らしの中で

始めて花を生けた記述といわれています。

あらゆるものを観察の対象とした清少納言ですが、

花に対する思いはことのほか深かったことでしょう。

 

“室内から張り出した欄干に

大きな青磁の壺を置き、

1.5メートルもある桜の大枝を

こぼれるようにさした様は、

なんとも好ましいものである”

 

と、桜の花の華やかさを

部屋の外に広がる風景とともに眺め、

良きものなりと語っています。

 

 

五節供

 

中国との交流が盛んになるにつれ、

多くの唐風文化を吸収してきた日本ですが、

平安時代にはいると

「五節句」の行事が宮中で盛んに行われるようになっていきます。

 

 

一月七日(人日・じんじつ) 

     野に出て七種の菜を摘み、羹(あつもの・吸い物)にして食し、

     年中の邪気をはらう儀式

 

三月三日(上巳・じょうし) 

     災いをもたらす悪気をはらうため、

     水に人形(ひとかた)を流したり、

     邪気をはらうとされる

     桃の枝を瓶に挿すなどして飾ります  神話の里として有名な、出雲・天岩戸神社の“人形(ひとかた)”

 

 

 

 

 

五月五日(端午・たんご)  

     宮中でおこなわれる儀式にあたり、

     参列する貴族は菖蒲を鬘に挿して出向き、

     朝廷より菖蒲の薬玉を賜ります

     薬玉とは、

     邪気を祓うために作られるお飾りで、

     蓬の葉を菖蒲で丸く包み、

     秋の菊の節供まで寝台の柱に吊り下げておきます

 

七月七日(七夕・しちえ)  

     牽牛星が天の川を渡り一年に一度、

     織姫星に会うという中国の伝説が、

     日本の棚織り姫の信仰と交じり合いできた星祭り

     夜空を眺めて梶の葉に歌をよんだり、

     庭に並べた棚にお供えをし、

     五色の糸を張るなどして、

     機織や手芸の上達を祈ります

 

九月九日(重陽・ちょうよう)

     九という陽の数字が二つ並ぶおめでたい日

     今を盛りとして咲き競う菊花を飾り、

     花びらを浮かべた菊酒を飲み、

     綿を被せて一晩置いた菊の露で肌をぬぐ

     などして長寿を祈ります。

     奈良時代にもたらされた菊の花は、

     中国では梅・竹・蘭と共に四君子として敬われていました

 

 

 

挿花(かざし)

 

頭髪または冠にさした花枝を“挿花”といいます。

野に咲く季節の花を身につける

というこの美しい行為は、

はるか古代から行われてきました。

宮中では奈良時代から冠に生花を挿していましたが、

次第に布や金属でできた造花も用いられるようになっていきます。

 

那智の滝で有名な和歌山県「熊野速玉大社」には、

14種30枝の挿頭華(国宝)

が伝えられており、

それらはツツジや松・椰をかたどりつくられています。

熊野速玉大社の古神宝“挿頭華(かざし)”

 

この挿花が、後世の「かんざし飾り」へと繋がっていくのですね。

 

「 ももしきの 大宮人は いとまあれや

           桜さざして 今日も暮しつ 

                    「新古今和歌集」 山部赤人

 

 

 

 

 

 

2015年5月18日 up date
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