雪月花
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その44 「花を飾るということ 4 ”室町時代・立花(たてはな)”」

 

室町時代 ~立花(たてはな)~

 

平安貴族が西方浄土に憧れて造らせた「仏間」は、

室町から桃山時代にかけて

書院造りの床の間」へと変化していきました。

そしてこの神聖な場所には、

格の高い花が生けられるようになります。

 

文阿弥花伝書(石田家本)

 

‶立花″とは

”花をたてる“と書くように、

へとまっすぐに垂直に伸びるシン(真・心)の花がすえられ、

神の宿る床の間を飾るにふさわしい「正統派の花の姿」といえるでしょう。

 

花入れには品格ある胡銅や青磁の器がもちいられ、

無限なる宇宙を感じさせる空間が成立します。

 

 

1380年6月9日 

この日、二条良基邸にて

記録にのこる日本始めての「花会」が催されました。

この会は、花の名手とされる公卿と数名の僧侶を加えた24名が

12人ずつに分かれて花を生け、

その優劣を競うというものでした。

このように花を立てるという新しい芸術が注目されていく中、

仏事に花を楽しむという

七夕法楽の花会(たなばたほうらくのはなかい)」が、

公家将軍家において

盛んに開催されるようになっていきます。

そして次第に、

一年をとおして時節の花を殿中に飾るということが

恒例となっていくのでした。

 

将軍家の所蔵する唐物を管理し花を生けるのは、

京都の六角堂頂法寺の僧である池坊専慶(いけのぼうせんけい)

や文阿弥(もんあみ)など花の名手たちに任されました。

こうして、

さらに進化していく桃山文化の華麗な建築に合わせるかのように、

「立花」の様式は堂々とした装飾性を強めていきます。

 

「花を生ける」という文化は、

中国における文人のたしなみであった挿花と、

宗教的意味合いのある供え花を基とし、

日本人の精神的な美意識を表すを得たことで発展し、

権力者の庇護のもと、

この室町の時代に根を下ろしたといえるでしょう。

 

 

 

 

2015年5月18日 up date
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