日本の香りの歴史

奈良時代

710年   奈良に都が移される(平城京)
752年   東大寺の大仏鋳造
754年   唐の高僧・鑑真和上来日
756年   聖武天皇崩御により遺品が 正倉院におさめられる

鑑真和上の来日

 仏教が伝来して200年、国家の宗教として空前の発展をとげた仏教ですが、その戒律の乱れははなはだしいものでした。
 そこで聖武天皇は、日本において正しく授戒できる僧を招くべく中国へと遣唐使をおくります。
 やがて彼らは理想とする高僧“鑑真”と巡り合いますが、来日の申し出に鑑真の弟子は誰一人として名乗りを上げませんでした。そうした中、「それならば自らが行きましょう」と決意をしたのが師である“鑑真”だったのです。
 しかし、中国において他に並ぶ者はいない、とまで言われるほどの活躍をしていた高僧の来日は、様々な面で非常に困難なものでした。
 帝の出国禁止令にくわえ、慰留を望む弟子たちの密告や妨害、さらに度重なる暴風雨によって貴重な経典は海に沈み、随行していた弟子は命を落としてしまうのでした。
 そして、激しい疲労から鑑真自身の両目まで失明してしまうのです。
 そうした苦難をのりこえ、決意をしてから10年の歳月、5度の失敗を経て、ようやく鑑真は日本へとたどりつくのでした。

「乾漆鑑真和上坐像」(国宝)奈良唐招提寺

 奈良の都に到着した鑑真は、朝廷より全面的に授戒を委任され、さっそく東大寺に戒壇を築き、聖武天皇初め400名もの僧に授戒を授けます。
 やがて唐招提寺を建立し日本での正しい仏教の修行の場を整えるのでした。
 こうして、ようやく日本の仏教は一新され完成されたのです。

 鑑真和上がもたらしたものは、仏教の貴重な経典・祭具類だけではありませんでした。
 その積載目録をみると、多くの香木や香料・そして薬草類が含まれており、それらは供え香として儀式に用いる目的だけでなく、医薬品としても大変に貴重なものでした。
 なぜなら神々がことのほか愛するという香料植物には、人知の及ばない不思議な力が宿っており、それらは人の病をも癒すと考えられていたからです。
 当時の医師の書状に、正倉院のシナモンを拝領したとの記載が残されており、シナモンが解熱などの治療に用いられていたことを伝えています。
 天平時代の香料は、生薬としての効能も高く貴重なものだったといえるでしょう。
 僧侶でありながら多岐に渡る知識をもっていた鑑真和上は、そうした一級の知識をも日本に伝えたのです。
 こうして、日本のために心血を注いだ高僧“鑑真和上”ですが、渡来から9年後の763年、76歳にて静かに入寂されます。

 偉大な師を偲んで、弟子により“鑑真和上像(国宝)”が彫られましたが、その姿は胸板も厚く実にガッシリとしており、信念を貫く精神の強さだけでなく荒波を乗り越えてきた屈強の体躯を感じさせるものでした。
 まぶたを静かに閉じて瞑想するこの像を拝した松尾芭蕉は、その崇高なお姿に息を呑み、このような句を残しています。

「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」 松尾芭蕉

正倉院の宝物

 日本の貴重な資料である「正倉院の宝物」とは、756年5月に崩御された聖武天皇の遺愛品を中心に保存されたものです。
 后である光明皇后が、ご供養のため奈良の東大寺に献納されましたが、日本の伝統工芸品はもとより唐の時代の中国文化やインド・ペルシャなどの美しくエキゾチックなデザインを今日まで伝えています。
 そうした調度品の中には、8世紀当時の貴重な香道具も含まれており、日本の香りの文化やルーツを知るうえで大変に貴重な資料といえるでしょう。
 それでは、正倉院に残る香りの宝物をいくつかご紹介します。

「香木・蘭奢侍(らんじゃたい)」

“蘭奢侍”とは、正倉院に秘蔵されている黄熟香に属する香木につけられた名称です。
全長156センチ、重さ11.6キロの大きなもので、別名“東大寺”といわれる日本で最も有名な香木ですが、蘭奢侍という文字をよく見ると、東大寺という語句が隠されているのがわかるでしょう。
元来、立ち上る香煙は、神々を喜ばせ神と人間との距離を結ぶための捧げ物でした。
仏教界の輪廻転生の教えによると、死者には四十九日の間、絶やすことなく香を手向け続けなければなりません。
香木の幽玄な香りは、他に類の無い大変に貴重なものだったのです。

時代が下り、銘香“蘭奢侍”は、時の権力の象徴として数々の逸話を作り出しました。
正倉院の勅封とされていたこの香木には、足利義政・織田信長・明治天皇により裁断された跡が残されています。
信長は、宗及と利休に1包ずつ分け与えたといわれますが、名古屋の徳川美術館にも同名の“蘭奢侍”が保存されていることから、家康も裁断したものと思われます。
また、この沈香を試香された明治天皇は、その香りを「ふるめきしずか」と表現されました。

「香木・蘭奢待」

「黒漆香印押型盤」

 香りで時間を計るために使われる正倉院の押型盤は、木製で黒漆が施され、唐草模様に似た溝が彫られています。
 この溝に、抹香を押し固めさらに灰を重ねて裏返すと香印という香を焚くしつらえができあがるわけですが、着火された抹香の燃えた長さによって時間をはかることができたのです。

「黒漆塗香印押型盤」

「鞠形薫炉(まりがたくんろ)」

 御物には、衣服に香を焚き染めるための香炉が二合おさめられています。
 銀製の直径が18センチのものと24センチとやや大きい銅製の薫炉で、それぞれ球体をしており、転がっても香がこぼれない仕掛けが施されています。このからくりは“がんどう返し”とよばれ、球の中の3本の軸で香皿をささえ、回転しても重心が常に水平で傾かない仕組みになっています。
 一説には、布団の中に転がして香らせたとも言われていますが、当時は中国から伝わった秘伝中の秘伝だったことでしょう。
 銀薫炉には、ペルシャ風の花唐草と獅子・鳳凰の文様が美しい透かし彫りで施されています。
「銀薫炉」正倉院宝物

「銅薫炉」

「香嚢(こうのう)」

 香袋や掛香などの薫香品を“香嚢”といいますが、香袋は香料を粉末にして詰めた匂い袋で、衣装や貴重な文書・経巻を虫害から守り、移り香を楽し むためにつくられました。
※えび香・・・  正倉院には、漆を施した奈良時代の“櫃(ひつ)”とよばれる長方形の蓋つきの箱が多数保存されていますが、中に納められる様々なものと共に芳香防虫の目的で「えび香」と称される香袋が入れられていました。
 現在、九包の残されている「えび香」は、どれも二重の白い平絹に包まれ、防虫効果の高い白檀や丁子など6~7種の香料が調合されています。
 「源氏物語」の「末摘花の巻」には、荒れ果てた屋敷にひっそりと暮らす姫君の古びた衣から、古式ゆかしいえび香の香りが漂い、源氏の心をとらえたとの一説が綴られています。
 なにかにつけ魅力に乏しい姫君でしたが、名門ならではの上品な香りが源氏の君の心から離れることはありませんでした。
※小香袋・・・  江戸時代に風情ある女性のたしなみとして広く流行した匂い袋には“花袋”や“浮世袋”などの名がつけられましたが、その原型ともいえる香袋が正倉院に残されています。
 1.8×2.6センチと、とても小さいこの“福豆形の匂い袋”は、中国・唐代の貴族婦女子に愛用されたものと同じ形をしており、現存する香袋では世界最古といわれています。 正倉院には保存状態は色々ですが全部で7つあり、巾着の口元に綺麗に編まれた緒が結ばれています。
  唐の玄宗皇帝から寵妃・楊貴妃へと贈られたとされている香袋も時代的背景から同型のものと推測されていますが、中には当時最も貴重だった麝香などの香料がいれられていたかもしれませんね・・・。

「正倉院の小香袋」
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