日本の香りの歴史

鎌倉・南北朝・室町時代

1192年     源頼朝により鎌倉幕府が開かれる
1338年    足利尊氏、京都幕府を開く
1392年    南北朝統一
1397年    足利義満が金閣寺を建立
            貴族的華麗な北山文化
1467年    応仁の乱
            下克上の戦国時代
1489年    足利義政が銀閣寺を建立 東山文化
1573年    織田信長により室町幕府滅亡


 平安時代の雅な貴族社会から、鎌倉・室町と武士が主導権を握る時代へと移りつつある中で生み出された新たな文化は、やがて今日まで続く日本の源流となっていきます。
 農業の生産力が向上したことから経済力を強めた日本は、ふたたび大陸との交易を盛んに行うようになり、さまざまな文物と共に上質な香木もたくさん入ってくるようになりました。
 また、仏教界にも中国から「禅宗」という新たな教えが伝わり、権力闘争に明け暮れる武士達の心に特別な意味を持って受け入れられていきます。
 それでは、この動乱の中世期に生きた二人の逸人から時代を読み解いていくことにしましょう。

婆紗羅(バサラ)大名・佐々木道誉

「佐々木道誉画像」勝楽寺蔵 近江の豪族で足利尊氏の守護大名として活躍した佐々木道誉(1306~1373年)は、別名「婆紗羅大名」と呼ばれました。
 バサラとは仏教用語が語源のダイヤモンドのことで、ダイヤが全ての石を砕くことから “けたはずれなこと”を意味するようになり、転じて“アウトローな人、贅を尽くし自由気まま傍若無人な振る舞いを働く者”という 意味で南北朝期にこの言葉が流行し、その代表ともいえるのが道誉でした。


 「太平記」巻三十九には、膨大な香木の収集家でもあった彼の桁外れな行動が記載されています。

「 1366年大原野の勝持寺で催された「花見の宴」では、左右にある桜の古木の下に大きな真鍮の花入れをかたどって生け花に見立て、その中央に龍にデザインされた耳を持つ豪奢な香炉を置き、通常は数グラムずつ焚く高価な沈香を一度に一斤(600グラムといわれる)も焚き上げ、その馥郁たる芳香は四方全山に流れ、あたかも極楽浄土に迷い込んだかのようだった。」

 じつはこの催し、道誉が行っていた五条の橋の工事の遅れを斯波高径がさっと仕上げてしまったことで面子をつぶされた彼が、高径が花見の会を催すことを知り、出席の返事を出しながら同じ日に京中の文化人を集めて大々的に企画した派手で豪勢な宴だったのです。

 また、「太平記」巻三十三には彼のバサラたるゆえんが表記されています。

「 バサラ大名の佐々木道誉が闘茶(とうちゃ)を始め、連日寄り合って贅の限りを尽くしていた。国内外の宝を蒐集し、豪華な飾り付けをして、どの椅子にも豹や虎の皮が敷いてある。思い思いの緞子や金襴の衣装をつけた四人の主客たちが居並ぶ姿は、荘厳の飾り付けを極めた豪華な床の上に千の仏が並んでいるようである。
 食後にうまい酒を三献(さんこん)して闘茶の懸物に百物を用意した。百物のほかにもくじでもらう前引が用意された。一度目の頭人は、染物を百ずつ六十三人の前に積んだ。二度目の頭人は、色々な小袖を十重ねずつ置いた。三番目の頭人は、沈香の大材百両ずつ置き、麝香を三つずつそえて置いた。」

 当時、権力をかさに贅の限りを尽くしていた諸大名は、香木や茶を聞き当てる“闘香”や“闘茶”などの賭け事に興じていました。
 勝者には、褒美として贅沢な反物や工芸品・水墨画・香木などが与えられたのです。
 しかしながら、このような無軌道とも思える行動の影には、今日・明日と命のあてのない時代に生きる無常観と、権力を我が物にしてしまった武将達の戸惑い、さらに貴族という階級に対するコンプレツクスが内在していたのでしょう。

 破天荒な暮らしをおくる佐々木道誉ですが、やがて彼の心に変化を与えるできごとが起こります。

「妙法院の紅葉事件」

 1340年秋、鷹狩を終えて帰る途中の婆紗羅一行は、妙法院の見事な紅葉に感嘆し、その一枝を手折ります。すると寺の僧から“御所の枝を折るとは何と”と怒られ、枝を奪い返されてしまうのでした。
 心外した道誉は300人の手勢を集めて寺院を襲撃、院の若宮を取り押さえて暴行し火を放つという暴挙を働きます。
 この妙法院の門主が比叡山の住職であったことから騒ぎは大きくなり、幕府は彼に、上総(千葉県)への都落ちを言い渡すのでした。

 意気消沈するかと思いきや、それではと勇んで旅立った一行の行動は、また派手なものでした。
 300人の共の者に当時ステイタスだった鶯の籠をもたせ、比叡山の神の使いといわれる猿の皮で作った矢入れや腰当てを身につかせて、道中酒盛りをしての大騒ぎで行進していったのです。
 しかし途中で足利尊氏に呼び戻された彼は、尊氏にこのような言葉をかけられるのでした。
 「貴族以上の教養や風流を身につけて、見返してやればよいではないか。それが貴族に勝つことなのではないか・・・」 あまりに軌道をはずした道誉の行動の裏にある苛立ちを見通した尊氏の言葉は、彼の心の真髄を見事に捕らえていたのでしょう。
 これより婆紗羅を返上した佐々木道誉は、風流の道へと歩を進めていくことになります。

東山文化を築いた足利義政

 室町幕府の八代将軍・足利義政は、将軍としての統率力に欠けた人物でした。
 幕府の弱体化は、農民や下級武士による一揆などをひきおこし、さらに将軍家の跡目争いによって「応仁の乱」が勃発してしまいます。
 そうした不穏な空気の世の中をよそに、将軍義政は独自の芸術の世界に没頭していくのでした。
 しかしながら、彼のすぐれた審美眼は、今日の日本文化の源流ともいえる文化を築いていくことになります。

 将軍職を息子に譲った義政は、祖父である義満が建てた金閣寺にならって「銀閣寺」を建て、残りの生涯を心ゆくままに過ごします。
 銀閣寺に建立された「観音殿」は、下層に“心空殿”と呼ばれる書院造りの住いを、上層は“聴音閣”と呼ばれる禅宗の仏堂に仕上げられています。
 中でも書斎として作られた「東求堂」の一室“同仁斎”は、現代へとつながる4畳半茶室の原型といわれ、現在国宝に指定されています。
 拝見してみると私たちにはいっけん当たり前のように感じられる銀閣寺の様式ですが、玄関で履物を脱ぎ、敷き詰められた畳の部屋に座り、高価な和紙を張った障子で外気を閉ざして床の間がある、という日本建築の源流がここに誕生したわけです。

「銀閣寺(東山慈照寺)」
「東求堂内の同仁斎」

 中でも、畳というものは当時でも大変に贅沢なものでした。
  平安時代の宮中では、板敷きの床面に人が座るところにのみ畳を敷くのですが、当時の寝殿造りの大きな部屋は、衝立で仕切られただけで外気が流れ込む大変に暗く寒いものでした。
 落ち着きのある小さな空間に、部屋いっぱい畳を敷き詰め、和紙で外気を遮断し、明かりを室内に取り込むという日本家屋の快適な空間をつくりだしたのは、足利義政が最初だったのです。
 彼が銀閣寺に移り住んだのは1483年から55歳で亡くなる1490年までの7年という短い期間でしたが、この時期のことを「東山時代」と呼びます。
 ドナルド・キーン教授は、義政の功績をこのように評しました。

 “東山文化は、日本人の趣味、日本の心の形成に多大の影響を与えたのであり、極めて大きな歴史的重要性をになっている・・・”


 また、義政は佐々木道誉から受け継いだ膨大な香木177種を三条西実隆と志野宗信らに命じて体系化させます。 そうして完成した分類法「六国五味(りっこくごみ)」は、香木を産地と舌で感じる味覚で選別するという画期的なものとなるのでした。

六国、五味

 これら五味の全ての特徴をもつ最高品位の沈香を“伽羅”とよんで、特に珍重するのですが、さらに義政は遊戯的な要素の濃かった香の世界に一定の作法を取り決め、日常を離れた集中と静寂の世界にひたる芸道「香道」へとひきあげていくのです。


 力を失った朝廷貴族には、もう薫物を楽しむ余裕はありませんでした。
変わって勢力を把握した武士達は一木の香を焚き、その幽玄な芳香に酔いしれたのです。
こうして中世に築かれた新たな文化は、禅の精神をもとに侘び寂びの度合いを増していくことになります・・・。

「塩山蒔絵十種香箱と香道具」
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