雪月花
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その46「花を飾るということ 5 “桃山時代・投げ入れ”」

2015年6月12日

 

桃山時代 ~投げ入れ~

千利休画像(長谷川等伯筆)

 

“千利休”が

“侘び”の世界である茶の湯に取り入れたのは、

投げ入れ」という実に簡素な花の姿でした。

投げ入れの花は、

身分を取り去ることから始まる「侘茶」の世界において

もっともふさわしいものであると同時に、

“美”というものの定義に新しい価値観を提示することになります。

 

千利休(1522~1591)・・・『一点の花を確立』

 

茶室という小さな空間は、

自らの内面と向き合う場でもありました。

にじり口から身を低くして席入りし、

スッと視線を上げた先に飛び込んでくる一輪の椿。

人はその瞬間、

張り詰めた緊張感と装飾を超えた“真の美”を発見したことでしょう。

 

「数奇門書」椿と水仙の抛入花

 

 

 

 

 

 

 

一輪の花のみで

すべてのことを表現しきったといえる利休の代表的「投げ入れ」の形です。

さらに、千利休の花にまつわる逸話を紹介しておきましょう。

 

✤ 竹筒の花入「園城寺(おんじょうじ)」

竹一重切花入・銘「園城寺」(東京国立博物館蔵)

               

草花の運搬のために用いられていた竹筒を、

席の花入として応用したのは、

利休の師である

紹鴎(じょうおう)でした。

 

1590年、秀吉の小田原出陣に同行した利休は、

自ら韮山の竹を切り、

その頂に輪を残して窓を開けた花入を作ります。

正面にある雪われの二筋を

園城寺の割れ鐘にみたて名づけられたこの花入は、

単なる竹筒を

完成度の高い造形作品として昇華させることとなり、

後世の竹花入れの基本的スタイルとなりました。

 

現在、上野の国立博物館に収蔵されているこの花入れを見ると、

想像よりもガッシリと太く、

利休が斧で切り出す際の力強さを感じることができるでしょう。

 

✤ 紅梅の花

 

ある時、天下人秀吉は、

大きな金の鉢と一枝の紅梅を利休に差出し

「花仕れ」と命じます。

果たして居士はどの様な花を生けたのでしょうか。

彼は大きな鉢に水をたたえた後、

清らかに咲いた梅の花を水中へと掻き落とすという

独創的な発想で花を生け、

秀吉を驚嘆させるのでした。

 

✤ 古銅鶴首花入「鶴一声(つるのひとこえ)」

胡銅鶴首花瓶・銘「鶴一声」(徳川博物館蔵)

 

この細く長い鶴首形の器は、

底に波寿文の高台がつき、

格調たかい古銅の花入として伝えられています。

利休はこの器を床に置いて

なみなみと水のみを湛え、

究極とも言える茶席の花とするのでした。

 

このように器に水だけをなみなみと張った

という記録が、利休の茶会記に6回記録されてます。

生命の源である水の命をめでることこそ、

彼の打ちたてた「投げ入れ」の美学を象徴しているのでしょう。

 

通俗的な観念にとらわれず、

次から次へと常識を打破していった千利休。

しかしながら、

彼には切腹という最期が待ち受けていたのです。

 

利休のなしえた新しい価値観の確立には、

権力に対して信念を曲げない気骨の精神が感じられ、

そうした厳しさが茶の湯や花の美学に反映されて

私たちをとりこにするのでしょう。

 

「花は野にあるように・・・」

そう茶席の花を説いた利休ですが、

自然を人間の手で表現することほど難しいことはありません。

見る人にあの自然の清らかさや抱擁力を思い起こさせ、

心に入り込む花を生けるには、

定まった生き方の美学なくしては生まれないことなのでしょう。

 

 

「投げ入れ」とは、

見向きもされない野菜の花にすぎなかった菜の花を、

茶席の花に用いた利休のように、

草”に見える花の中に“真”が隠れていることを伝える花なのです。

 

 

江戸時代 ~生け花の隆盛~

 

江戸時代にはいり、

商人の経済力の成長を背景に

“茶の湯・香道・生け花”などの芸事が民衆にまで広まっていくようになります。

「生け花」の世界では

数々の流派が誕生し、まさに隆盛の時代を迎えたといえるでしょう。

 

「池房博好 立花巻物」 鶏頭真の立花(陽明文庫蔵)

 

室町時代に起こった神へとむかう正統派の花「立花」と、

茶の湯から生まれた草庵の花「投げ入れ」は、

その伝統を踏まえた上で新たに発展していきました。

 

現代では、

たしなみのひとつとして多くの女性が「生け花」を学んでいますが、

その昔は男性の世界であったことをご存知でしょうか。

花に対してことのほか熱中していた後水尾天皇は、

寛永6年じつに33回もの「立花会」を催しています。

中でも7月に開催された「七夕大立花会」は、

僧侶である2代目池坊専好の指導・採評のもと、

49人もの出瓶でおこなわれました。

 

この会が画期的なものだった訳は、

天皇みずからの花会ながら、

身分階級を越えた人選がなされたことでした。

身分制度の根強い時代に、

己の出生に関係なく実力でのし上がる事のできる数少ない道筋に

「生け花」が台頭してきたのです。

 

公家から僧侶そして町人、

さらに日本の農村にまでも

花を生ける行為」は普及していきました。

 

男達は、

畑仕事や山への帰りに花材となる草や花木を採って集まり、

法恩講や青年団の集まりなどで花の稽古を行うのでした。

村人の手よって

お寺の本堂に立派な立花を生けこむことも、

常として行われていたようです。

 

 

やがて家元制度が生まれ

階級というシステムの発展と共に、

さらなる急速な広がりを見せた「生け花」は、

次第に女性のたしなみとして

庶民の間に浸透していくことになります。

今では考えられないほどに、

女性が社会で認められることの難しかった時代において、

生け花の世界は数少ない女性の表現の場となっていったのでした・・・。

 

 

 

※時代を追って、

祖先の花に対する扱いの歴史をみてきました。

「花を飾る」というその行為は、

祈りであり喜びであり、

時に表現でもありました。

 

常に私たち人間のそばに寄り添い

語らずして何事かを諭してくれる

その声なき草花の思いに、

これからも人は魅了され続けていくのでしょう・・・。

 

 

 

 

 

 

 

2015年06月13日 up date
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