雪月花
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ブログ更新 その89「猫のサスケさんのこと 2」

2018年12月18日

 

今お気に入りの寝床、フカフカマットです。

 

本当は丸いベットの上にある掛物の中にはいると暖かいのですが

この子には暑すぎるようでいつも上に寝ています。

先日、ダンボールをカットしてお屋根を作りました。DSC_0162

 

夜にカバーを降ろしてあげるとちょうど良いようです。ゆっくり寝てくださいね。

 

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遊ぶのも大好き。

紐の先に”またたびスプレー”をシュッシュッとすると

一生懸命つかまえようと頑張ります。

 

男の子はいつまでも子供らしくて可愛いですね。

 

そして、この目は「トントンしませんか~」の合図です。

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トントンとは、一緒に横になって私の腕におさまり

お尻をトントンすること。

 

 

 

自作の”サスケさん子守唄”を歌いながら

毎日必ずするスキンシップです。

 

頭を押し付けて、グルグル喉を鳴らしながらお休みします。

 

甘えん坊のサスケさんのおかげで

私にとってもリラッスクできる大切なひと時となりました。

 

ちなみに子守唄は、こんな感じです。

「トントントンのサスケさん

可愛いね~。たぬきさん~。

 

サスケはトントン、いつでもいい子。

ポンポコリ~ンのたぬきさん~。」

 

自分でもおかしいなんて思いますが、

子供がいない私にとって

お母さん気分にさせてくれる時間です。

 

親バカならず猫バカともいうのでしょうか。

お読みくださり、ありがとうございました。

 

お寒くなってきましたね。

どうぞ皆さまご自愛のうえ、素晴らしい新年をお迎えください。

 

宮沢とし子

 

 

 

 

 

 

 

2018年12月18日 up date

ブログ更新 その88「猫のサスケさんのこと 1」

2018年12月15日

 

いつも寝てばかりの猫のサスケさんです。

生徒の皆さんがいらしているときには、のっそりと現れウロウロして回ります。

じつはお客様が大好きなのです。

 

この子は保護猫で、

父が亡くなった翌年にボランティアの方から私が引き取らせていただきました。

 

段ボールの中をのぞくと、6匹ほどの兄弟の中でひと回り大きく

おっとりとした様子でそこにいたのです。

 

迷いもなくこの子を抱き上げ家へと迎え入りました。

 

 

この表情は、おやつ頂戴の目力です。

 

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早速大好きなチュールをあげましょう。眼が真剣すぎてちょっと恐い…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サスケさん、じつは小さいころに大病をしました。

血栓が詰まり急に後ろの両脚が動かなくなってしまったのです。

 

それでも脚を引きずりながらおトイレに行こうとする姿に涙が流れました。

 

病院で薬を投与しましたが、

あまりに副作用がひどく吐きまくるのでお医者さまも治療ができない状態。

ロッカーのような病室に入れられたサスケは、

まるでボロぞうきんのように毛並みの艶がなくなり

どうなってしまうのか本当に心配でなりませんでした。

 

好きなキャットフードをもって毎日お見舞いに行きましたが、

もう治療はできないということで退院することになりました。

 

家に帰ったことで少し落ち着いた様子になりましたが、

毛が抜け落ちた肌をなめないように

薬を塗って包帯を巻くのが大変で

母と格闘しながらの毎日です。

 

 

先生から血の流れをサラサラにする錠剤をいただきましたが、

この薬は気休めていどのものなのでこの子は長生きができないでしょう。

と伝えられました。

 

それでもサスケさんの生きる力が勝っていたのでしょう。

今年で18歳の立派なおじいさんになりました。

 

当初は脚で耳の後ろをかくこともできず

宙を舞うばかりの脚の代わりにカリカリしてあげていましたが

少しずつ本当に少しずつ身体の機能も快復していきました。

 

書いていたら色々なことを思い出してしまいました。

本当に元気になってくれて良かった。

今では私の唯一無二の存在です。

 

つづく・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年12月17日 up date

ブログ更新 その87「タイサンボクの花」

2018年6月21日

 

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今日は夏至の日。

一年で一番、日が長い日。

 

梅雨の晴れ間となったこの日

サーと目に飛び込んできたタイサンボクの花。

 

 

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それは見事に厚い花ビラをユッタリと広げ

二輪寄り添うように咲いていました。

 

別名「マグノリア」というこの花はモクレン科の植物で

初夏の訪れとともに高貴な芳香を放ちながら開花します。

 

花言葉は人生の展望が開けていくさまをあらわした「前途洋洋」。

 

その花言葉にふさわしいかのように

堂々と正面を見据えているかのような凛とした花姿は

気品に溢れ見るものを魅了してやみません。

 

なにかとても良い出会いをしたような

 

そんな気持ちにさせられる一日となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年06月25日 up date

ブログ更新 その86「受け継がれる日本の暮らし~包む~2」

2018年5月

 

受け継がれる日本の暮らし ~包む~ 2

 

~包む~

では“包む”という行為は、

いったいどのようにして始まったのでしょうか。

もともとは大切な食べ物を

“分ける””運ぶ“という利便性から生まれたのかもしれません。

 

布や紙などがまだ無かった古代の人々は、

大きな葉で食料を包んだり竹筒に水をつめるなど

身近にある植物を利用してきました。

熊笹・月桃・柏など自然の植物にはすぐれた抗菌・防腐効果がそなわっており

包むだけで食料を保存する効力も発揮したことでしょう。

 

 

手の平のような大きさの柏の葉  Quercus dentata.JPG

古事記には供物を柏の葉に盛ってお供えする記述がみられます。

 

 

今回は物を包むのに適した

「布織物」について考えてみましょう。

経糸と横糸を交互に編み込み、

薄い平らな面の状態に仕立てたものが布織物です。

布の制作にあたって、

人類は初め植物の草や蔓またその繊維を利用ました。

 

~麻~

縄文時代すでに人々は、

楮や芭蕉・葛などの繊維で織った布で身体覆い敷物などに用いていました。

縄文時代の遺跡からは

大麻(おおあさ)で編まれた縄が、

弥生時代の遺跡からは大麻の織物が出土しています。

縄文土器の美しい文様は、

撚った紐を押し当てたり転がしたりしてつけられのです。

 

「古事記」にも登場する麻という植物は、

やがて日本の宮中祭祀に欠かせない神聖な植物となっていきます。

天皇が即位した後、

初めておこなわれる新嘗祭「大嘗祭」では、

天皇は「麁服(あらたえ)」と呼ばれる大麻で織られた衣を着用されます。

戦後GHQにより有害性のある大麻の栽培は全面禁止となりましたが、

朝廷祭祀を司ってきた氏族の末裔にあたる

徳島の三木家により特別に栽培が許され調進されます。

 

Cannabis sativa - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-026.jpg

大麻草

 

麻の繊維と繊維をはいだ後に残る麻幹(おがら)

 

 

 

~絹~

次に、軽くしなやかで美しい光沢を放つ絹織物をみていきましょう。

絹は紀元前300年ごろ(弥生時代)、

中国より稲作の技法とともに伝来しましたが、

長い間日本では粗雑な製品しか作ることができませんでした。

ゆえに飛鳥時代に貴族が身にまとっていた絹織物は、

ほとんどが渡来の製品で大変高価な貴重品だったわけです。

 

やがて日本に帰化した中国や朝鮮の職人たちにより、

少しずつ織物の技術が発展していきます。

当時の人々にとって貴重な布や生糸は、

中国の租税にならい

日本でも朝廷への貢物としておさめることが長く義務づけられていくことになります。

 

繭玉「小石丸(こいしまる)」

 

奈良時代より飼育されてきた古来の蚕品種「小石丸」は、

小粒ゆえ生産量が半分ほどに少なく

飼育も難しいため姿を消す運命をたどっていました。

皇室では代々宮中の御養蚕所(ごようさんじょ)で蚕を育て絹を紡いできましたが、

小石丸の生育を中止する議論がなされたとき、

美智子皇后が残すことを主張され存続されることになります。

 

1950年代の紅葉山御養蚕所(大正3年の皇居内に建てられました)

 

それから二十年の月日が流れた後の1993年、

正倉院御物の裂復元事業がはじまると

現在の改良された生糸では品質が劣っているため復元に適さないことが判明します。

復元を依頼された川島織物は、

古代種である小石丸の生糸が最適と判断し

小石丸繭の御賜下(ごかし)を願い出、

その申し出に快諾された陛下は

さらなる量産を約束し長期に渡り小石丸繭を提供されるのでした。

 

極々細くしなやかで

光沢も素晴らしい高品質な生糸は、

こうして貴重な天平時代の文化財を復元させる手立てとなったのです。

  • 114317
  • 紅葉山御養蚕所と正倉院裂復元のその後 皇后陛下喜寿記念特別展

 

 

 

~綿~

実用性に優れた綿織物は絹より後、

奈良時代に入りようやく日本の歴史に登場してきます。

平安時代、愛知の砂浜に漂着したインド船によって

綿花の種が日本に伝わったことが記録に残されていますが、

その栽培は難しくなかなか成功しませんでした。

室町時代になってようやく日本の気候風土のあった品種が朝鮮より渡来し、

国産綿花の栽培が始まることになります。

 

Feld mit reifer Baumwolle.jpeg

綿花畑

 

庶民の衣服は長く麻織物が主流でしたが、

柔らかく吸水性にすぐれ扱いやすい綿は、

日本人の暮らしへと急速に取り入れられていくことになります。

 

麻・絹・綿と代表的な織物の歴史を見てきました。

人の暮らしになくてはならない布織物は、

身体を保護するだけでなく

暮らしの様々な場面で無くてはならない製品となり、

やがて人々は様々な知恵をふくらませ

「包む」という行為を発展させていことになるのです。

 

正倉院の平包み

 

布ぼく 正倉院蔵

正倉院御物「平包み」

 

 

平らな布を広げ物を包むという文化は世界中に見られますが、

奈良時代の正倉院御物にも残されていますのでご紹介しましょう。

 

正方形に仕立てられたこの平布は、

舞楽の装束を包み

片側につけられた紐で固定して唐櫃へと保管されていました。

平安時代には「古路毛都々美(ころもつつみ)」と呼ばれ、

右下に内容物がわかるように墨書がなされています。

 

こうした便利な布がやがて現代にも残る風呂敷へと発展していくことになるのです。

 

 

 

2018年05月13日 up date

ブログ更新 その85「受け継がれる日本の暮らし~包む~1」

2018年4月

 

受け継がれる日本の暮らし ~包む~ ①

 

~日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の火打ち袋~

袋物の歴史をさかのぼっていくと、

「古事記」の中にすでに登場していますのでご紹介しましょう。

 

大和国の帝の子として生まれたヤマトタケルノミコトは、

ある日父が妻に迎えようと考えていた姫を

自分の妻にしてしまった兄のもとに行くよう命ぜられます。

諭すだけで良かったものを武勇に秀で激しい気性をもっていたヤマトタケルは、

いきおい兄の手足をもぎり厠に投げ込んで殺してしまうのでした。

そのことを知った帝は彼の力を恐れるばかりか忌み嫌うようになり、

東国征伐の命を授けます。

 

大和の国に従わない僻地へと征伐に赴くことは、

死罪にも等しい仕打ちでした。

愛する父への思慕が深かったヤマトタケルは、

このむごい扱いに苦しみ嘆きます。

彼の悲しみを知った叔母の倭姫(ヤマトヒメ)は、

苛酷な旅へとむかう彼を慰め伊勢の神宝である“剣”と小さな“袋”を与えるのでした。

 

旅立った敵地で言葉たくみに誘い出されたヤマトタケルは、

草原で火責めにあい窮地にたたされます。

 

 

 「ヤマトタケル」 歌川国芳版画 江戸時代 wikipediaより

 

そこで叔母より授かった剣を抜いて周りの草を刈り、

剣の根元に結んでおいた袋から火打石を取り出して新たな火をおこし

敵の火勢を押し返して難を逃れるのでした。

 

 

この一件からヤマトタケルの剣は“草薙の剣”と呼ばれ、

現代まで皇室に脈々と続く三種の神器の一つとなるのですが、

この剣と火打ち袋を手渡されたおかげで彼は命を永らえることができたのです。

 

この「古事記」の物語にあやかり、

戦国時代の戦に旅立つ武士達はお守りとして必ず

家伝の火打ち袋を携えていったと伝えられます。

 

~火打ち袋~

マッチやライターなどの便利な火付け道具がまだなかった江戸時代、

行軍や旅路へとむかう人々が大切に携えていったのは“火打ち袋”でした。

袋の中には、火打ち金・火打石

そして火口(ほくち)となるガマやカヤ(白い綿毛をつけるイネ科の多年草)の穂などがおさめられ、

鋼鉄の火打ち金と硬い石を打ち合わせることで

飛び散る火花を植物の綿毛に移して火をおこす仕組みです。

 

マッチが日本で初めて作られるようになったのは、

明治維新によって鎖国が解かれた後の明治8年だったといわれていますので、

人々にとって火を生み出す火打ち道具は

じつに大切なものだったことでしょう。

 

当時の男性は、錦や唐木綿・更紗・ビロードなどの布地のほか、

革や籐製など様々な素材を用いて袋を製作しました。

火打ち袋は、袋を綴じる紐の先端に根付をつけ

腰紐に通しぶら下げるようにして身につけますが、

 

象牙や黒檀・柘植製の根付には粋な彫刻がほどこされ、

当時の男性の美学がこめられるようになります。

 

 

復元された 「今川義元の火打ち袋」

復元された今川義元の火打ち袋

「嚢物(ふくろもの)の世界」平野英夫著より

 

 

復元された駿河(静岡県)の戦国武将・今川義元が所蔵していたといわれる火打ち袋は、

白いなめし革製で緒締めには古墳時代の管玉が、

根付には象牙か動物の骨と思われる当時流行した丸環が使用されています。

さすが後世に名を残す武将だけあり、

大変に趣味の良いデザインですね。

 

またこの袋表には、

漆で和歌が一首と平安時代の歌人であり三十六歌仙の一人でもあった源公忠(みなもとのきんただ)朝臣の名前が書かれています。

 

 

~火打ち袋の香袋~

 

火打ち袋の香袋

「火打ち袋の香袋」 宮沢敏子制作

江戸時代の「火打ち袋」の意匠を復元し

香袋として製作してみましょう。

表地には丁子を何度も染め重ねた“香色”の裂地を、

中布には淡い水色の絹を用いて仕立てます。

江戸時代に流行した赤味をふくんだ茶色の紐を“封じ結び”で飾り、

可愛らしいツゲ製の片折れ耳ウサギの根付と

トロンとした緑色の輝きが魅惑的な翡翠玉を緒締めに用いています。

 

 

香材料

排草香  10グラム

丁子   小匙半分

桂皮   小匙1

龍脳   ひとつまみ

中に詰める香料の主材料に選んだのは中国原産の“排草香(はいそうこう)”とよばれる植物で、

とくに根の部分に高い香気を抱いています。

細かい根がからみあう土混じりの香料をほぐしていると、

力強い大地の香りに包まれます。

その芳香は、香木のような落ち着きのなかにもスッとした清涼感が感じられ、

足元にある土の中にこんな神秘的な香りが秘められていることに驚かされることでしょう。

この香料は、匂い袋のほか粉末にして練り香やお線香の材料としても使われています。

排草香(はいそうこう) 拝草香

 

それでは香料を調合していきましょう。

短くカットした排草香に、

乳鉢で砕いた丁子と

和製シナモンともいわれ甘みの中にピリッとした辛みを含む桂皮をあわせ、

最後に防虫効果の高い龍脳の結晶を加えます。

 

それぞれの個性ある香りがお互いを引き立てあい、

たくましくも心地良い芳香に仕上がりました。

 

 

 

 

 

2018年04月15日 up date
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