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ブログ更新 その97 「有職文様裂」

2020年8月14日

 

山陰地方の老舗に

制作をお願いしていました有職裂が届きました。

 

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大変美しい有職文様の裂です。

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アップにするとその文様と色合いが良く判りますね。

上品な光沢を放つこの裂は不思議なことに上下を変えて眺めると

片方からは赤が、そして片方からは緑が際立って見えるのです。

 

美しく織り上がった有職裂、いつまで眺めていても飽きることがありません。

 

 

有職文様とは平安時代から朝廷や武家の装飾品に使われていた文様で、

平安貴族の衣装(束帯、十二単)や調度品などの装飾に用いられた優美な織物のことをさします。

 

 

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この写真は、昨年東京国立博物館で特別公開された時に配られたパンフレットの表紙で

美しい高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)が映し出されています。

 

令和元年(2019年)10月22日から11月10日にわたって執り行われた

新天皇ご即位にともなう儀式は大変趣深く、皆様の記憶に刻まれたことでしょう。

 

平安時代初期に確立されたという「即位礼正殿(そくいれいせいでん)」と呼ばれる宮中儀式は、

千年の時を超え大切に踏襲されてきました。

 

厳粛な儀式は各国の元首や使節が参列する中、執り行われ

 

天皇陛下は、御束帯(ごそくたい)黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)をお召しになり

正殿松の間に置かれた高御座にお昇りになられました。

 

続いて、御五衣(おんいつつぎぬ)・御唐衣(おんからぎぬ)・御裳(おんも)をお召しになられた皇后陛下が御帳台にお昇りになり、

 

その後天皇陛下のおことばが述べられたのです。

 

 

 

儀式後に一般公開された国立博物館の会場では、

高御座・御帳台をグルッと周り、後ろ側も見ることができました。

 

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天皇陛下・皇后陛下が祭壇に登られた階段には

このような美しい錦の有職裂が引かれていたのですね。

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日本独特の宮廷文化が花ひらいた平安時代の貴族に好まれた紋様は、

鮮やかであり雅であり、私たちの心を惹きつけます。

 

 

私は今回制作していただいたこの裂を用いて、

香炉などの香道具をおさめるための小筥を制作しようと考えています。

 

爪を差し込んで封とする古典的なデザインの「有職文様小筥」。

 

どうぞ楽しみになさっていてください。

大変美しい筥となることでしょう。

 

宮沢

 

 

 

2020年08月14日 up date

ブログ更新 その94 日陰蔓卯杖(ひかげかずらのうづえ)飾り

2019年12月

 

日陰蔓卯杖(ひかげかずらのうづえ)

 

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今年最後のレッスンでは、年始に飾る「日陰蔓の卯杖飾り」を制作しました。

90センチほどの日陰蔓に今年収穫された古代米を用い、四垂の御幣と金銀の水引装飾で飾ります。

では「卯杖」とは、果たしてどのようなものなのでしょう。

 

 

奈良平安時代、宮中では正月初めの卯の日に年中の邪気をはらうため、

杖で大地をたたく儀式が行われました。

奈良の正倉院にはこの神聖な行事に用いられた椿の杖が伝わっています。

正倉院宝物「椿杖」

正倉院御物「椿杖」 
     

卯杖(うづえ)

杖の材料は、梅・桃・椿・柊や柳などの陽木で

、5尺3寸(約1.6m)に切ったのち一本ないし二・三本を束ね、

五色の糸を巻いて寿詞の奏上とともに天皇へ献上されました。

「日本書紀」には、背丈程の杖を天皇のお部屋の四隅に立てて邪悪を払ったと記されています。

 

中国・漢の時代に起源があるとされるこの儀式は、

やがて個々の貴族へと広がり、

平安時代には縁起のものとして互いに贈りあうようになっていきます。

卯杖は、新年を迎えはじめて訪れる卯の日から節分まで、

室内の几帳や柱などに吊るして飾られました。

 

民俗学者である折口信夫先生は、この様に記しています。

 

「・・・正月に関係のあるもので、卯杖・卯槌など言ふものがありますが、

此は、元は地面を叩く道具だつたと思ひます。

此行事は、今は小正月にも行ひますが、

正確には、霜月玄猪の日に行つたもので、土地の精霊を押へて廻る儀式だつたのです。

後には、精霊は地中に潜むと考へた事から、

土龍(モグラ)などを想像する様になりましたが、此を打つ木がうつぎでした。

中がうつろだからうつぎ(空木)と言うたとも言はれますが、

昔のうつぎがあれであつたかどうかは訣りません。

とにかくうつぎと言ふ木はあつたのです。

其が変化して、うづちうづゑになつたのだと思ひます。・・・」

 

卯杖は、次第に神社の儀式にも取り入れられるようになり、

伊勢神宮では内宮外宮へ奉納されます。

 

京都の上賀茂神社では

現在でも卯杖を大神に奉納する神事がおこなわれており

2本合わせた空木の杖を

日陰蔓・藪柑子・石菖蒲(せきしょうぶ)・紙垂(しで)で飾った杖を

年始の門に掲げ参拝者を迎えています。

 

 

日陰蔓(ひかげのかずら)

 

日陰蔓は常緑シダ植物で

細長い茎を地面に這うように成長し、その長さは2~3メートルにも達します。

針状の葉は非常に細かく茎に密生し、

苔のようにも感じられますが、

日本では沖縄以外の山野に広く分布生育しているのです。

 

生命力あふれるみずみずしい日陰蔓は、

神聖な植物として古来より神事に使用されてきました。

新嘗祭などの儀式に集う官人の冠には、物忌みのしるしとして日陰蔓が飾られ、

それはのちに青や白糸で組んだ紐飾りへと姿を変えていったのです。

 

アメノウズメ命の画像

アメノウズメ命が槽(うけ・特殊な桶)の上で舞う神話の場面

 

 

また、『古事記』の有名な場面にも登場しますのでご紹介しましょう。

「…乱暴をはたらく弟・スサノウノ命に怒ったアマテラス大神は、

天の岩屋戸にお隠れになってしまいます。

すると、この世は暗黒に包まれ悪疫がはびこってしまうのでした。

困った八百万の神々は、高天原の安の河原に集まり相談をします。

そしてアメノウズメノ命が、

天の香久山の日陰蔓を(たすき)に懸け、肌もあらわに乱舞するとドッと神々の笑いが起こり、

そのあまりの賑やかさに大神がソッと覗かれたその時、

力の強いタヂカラオノ命が岩戸をグッと引き開け大神を外へと連れ出すのでした。

岩戸にはすぐさま注連縄が張られ、

すると再びこの世は光を取り戻し、穏やかな平安の世が訪れたのです。・・・」       古事記より

 

日陰蔓卯杖飾り

1835年から1851年に刊行された10編からなる生花の入門手引書

『生花早満奈飛(いけばなはやまなび)』には、

当時飾られた卯杖の絵が残されています。

このお飾りは、桃か柳の杖に日陰蔓を垂らし、

山橘ヤマタチバナ(藪柑子)・山菅ヤマスゲ(ヤブラン)・木綿ユフ(日本最古の布といわれる楮布)を飾り、

頭を松葉重か紅梅重の鳥の子和紙で包んで紐でくくり吊るしたものでした。

 

 

卯杖とは、現在ではあまり眼にすることのない儀式ですが、

その歴史は古く大変神聖なものです。

みずみずしい植物を用いたお飾りに仕立て、

皆さまに幸多い一年が訪れますようお祈り申し上げます。

 

令和元年  瑞雲

 

宮沢敏子

 

 

 

 

 

 

2019年12月20日 up date

ブログ更新 その91「七夕 梶の葉」

2019年4月5日

 

今日は、桜日和の週末となりました。

今年の桜を皆さまどちらでご覧になっているのでしょうか。

私はここ数年、目黒河沿いの夜桜に足を運びます。

 

水面にうつる赤ちょうちんと桜の花は、それは美しく

見飽きることのない景色を目に焼き付けます。

 

そしてまた、年のせいでしょうか。

最近では、健康であることがいかに大切かを感じるようになりました。

 

好きなところに好きな時に、

自分の足で行くことができるということは、本当に素晴らしいことですね。

 

あたりまえのことが当たり前にできるように

弱っていく足腰を保ちながら齢を重ねていきたいと思います。

 

 

 

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今年は、皆さまと七夕の室礼を制作したいと考えています。

 

試行錯誤の結果、ようやく納得のいく梶の葉ができあがりました。

 

平安時代「乞巧奠(きこうでん)」と呼ばれていた七夕の節供では、

梶の葉に歌合わせの和歌を書きつけたのです。

 

墨ののりが大変よく平たく丈夫な梶の葉は、

庭先にしつらえたお供台に飾ったり

つの盥(たらい)とよばれた桶に水をはり浮かべるなどしました。

 

たいへんきれいな形の葉ですね。

 

さあ、これからデザインをまとめあげていきましょう。

 

お教室では 5月6月にかけて制作したいと思います。

どうぞ、楽しみになさっていてください。

 

 

 

2019年04月06日 up date

ブログ更新 その86「受け継がれる日本の暮らし~包む~2」

2018年5月

 

受け継がれる日本の暮らし ~包む~ 2

 

~包む~

では“包む”という行為は、

いったいどのようにして始まったのでしょうか。

もともとは大切な食べ物を

“分ける””運ぶ“という利便性から生まれたのかもしれません。

 

布や紙などがまだ無かった古代の人々は、

大きな葉で食料を包んだり竹筒に水をつめるなど

身近にある植物を利用してきました。

熊笹・月桃・柏など自然の植物にはすぐれた抗菌・防腐効果がそなわっており

包むだけで食料を保存する効力も発揮したことでしょう。

 

 

手の平のような大きさの柏の葉  Quercus dentata.JPG

古事記には供物を柏の葉に盛ってお供えする記述がみられます。

 

 

今回は物を包むのに適した

「布織物」について考えてみましょう。

経糸と横糸を交互に編み込み、

薄い平らな面の状態に仕立てたものが布織物です。

布の制作にあたって、

人類は初め植物の草や蔓またその繊維を利用ました。

 

~麻~

縄文時代すでに人々は、

楮や芭蕉・葛などの繊維で織った布で身体覆い敷物などに用いていました。

縄文時代の遺跡からは

大麻(おおあさ)で編まれた縄が、

弥生時代の遺跡からは大麻の織物が出土しています。

縄文土器の美しい文様は、

撚った紐を押し当てたり転がしたりしてつけられのです。

 

「古事記」にも登場する麻という植物は、

やがて日本の宮中祭祀に欠かせない神聖な植物となっていきます。

天皇が即位した後、

初めておこなわれる新嘗祭「大嘗祭」では、

天皇は「麁服(あらたえ)」と呼ばれる大麻で織られた衣を着用されます。

戦後GHQにより有害性のある大麻の栽培は全面禁止となりましたが、

朝廷祭祀を司ってきた氏族の末裔にあたる

徳島の三木家により特別に栽培が許され調進されます。

 

Cannabis sativa - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-026.jpg

大麻草

 

麻の繊維と繊維をはいだ後に残る麻幹(おがら)

 

 

 

~絹~

次に、軽くしなやかで美しい光沢を放つ絹織物をみていきましょう。

絹は紀元前300年ごろ(弥生時代)、

中国より稲作の技法とともに伝来しましたが、

長い間日本では粗雑な製品しか作ることができませんでした。

ゆえに飛鳥時代に貴族が身にまとっていた絹織物は、

ほとんどが渡来の製品で大変高価な貴重品だったわけです。

 

やがて日本に帰化した中国や朝鮮の職人たちにより、

少しずつ織物の技術が発展していきます。

当時の人々にとって貴重な布や生糸は、

中国の租税にならい

日本でも朝廷への貢物としておさめることが長く義務づけられていくことになります。

 

繭玉「小石丸(こいしまる)」

 

奈良時代より飼育されてきた古来の蚕品種「小石丸」は、

小粒ゆえ生産量が半分ほどに少なく

飼育も難しいため姿を消す運命をたどっていました。

皇室では代々宮中の御養蚕所(ごようさんじょ)で蚕を育て絹を紡いできましたが、

小石丸の生育を中止する議論がなされたとき、

美智子皇后が残すことを主張され存続されることになります。

 

1950年代の紅葉山御養蚕所(大正3年の皇居内に建てられました)

 

それから二十年の月日が流れた後の1993年、

正倉院御物の裂復元事業がはじまると

現在の改良された生糸では品質が劣っているため復元に適さないことが判明します。

復元を依頼された川島織物は、

古代種である小石丸の生糸が最適と判断し

小石丸繭の御賜下(ごかし)を願い出、

その申し出に快諾された陛下は

さらなる量産を約束し長期に渡り小石丸繭を提供されるのでした。

 

極々細くしなやかで

光沢も素晴らしい高品質な生糸は、

こうして貴重な天平時代の文化財を復元させる手立てとなったのです。

  • 114317
  • 紅葉山御養蚕所と正倉院裂復元のその後 皇后陛下喜寿記念特別展

 

 

 

~綿~

実用性に優れた綿織物は絹より後、

奈良時代に入りようやく日本の歴史に登場してきます。

平安時代、愛知の砂浜に漂着したインド船によって

綿花の種が日本に伝わったことが記録に残されていますが、

その栽培は難しくなかなか成功しませんでした。

室町時代になってようやく日本の気候風土のあった品種が朝鮮より渡来し、

国産綿花の栽培が始まることになります。

 

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綿花畑

 

庶民の衣服は長く麻織物が主流でしたが、

柔らかく吸水性にすぐれ扱いやすい綿は、

日本人の暮らしへと急速に取り入れられていくことになります。

 

麻・絹・綿と代表的な織物の歴史を見てきました。

人の暮らしになくてはならない布織物は、

身体を保護するだけでなく

暮らしの様々な場面で無くてはならない製品となり、

やがて人々は様々な知恵をふくらませ

「包む」という行為を発展させていことになるのです。

 

正倉院の平包み

 

布ぼく 正倉院蔵

正倉院御物「平包み」

 

 

平らな布を広げ物を包むという文化は世界中に見られますが、

奈良時代の正倉院御物にも残されていますのでご紹介しましょう。

 

正方形に仕立てられたこの平布は、

舞楽の装束を包み

片側につけられた紐で固定して唐櫃へと保管されていました。

平安時代には「古路毛都々美(ころもつつみ)」と呼ばれ、

右下に内容物がわかるように墨書がなされています。

 

こうした便利な布がやがて現代にも残る風呂敷へと発展していくことになるのです。

 

 

 

2018年05月13日 up date

ブログ更新 その85「受け継がれる日本の暮らし~包む~1」

2018年4月

 

受け継がれる日本の暮らし ~包む~ ①

 

~日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の火打ち袋~

袋物の歴史をさかのぼっていくと、

「古事記」の中にすでに登場していますのでご紹介しましょう。

 

大和国の帝の子として生まれたヤマトタケルノミコトは、

ある日父が妻に迎えようと考えていた姫を

自分の妻にしてしまった兄のもとに行くよう命ぜられます。

諭すだけで良かったものを武勇に秀で激しい気性をもっていたヤマトタケルは、

いきおい兄の手足をもぎり厠に投げ込んで殺してしまうのでした。

そのことを知った帝は彼の力を恐れるばかりか忌み嫌うようになり、

東国征伐の命を授けます。

 

大和の国に従わない僻地へと征伐に赴くことは、

死罪にも等しい仕打ちでした。

愛する父への思慕が深かったヤマトタケルは、

このむごい扱いに苦しみ嘆きます。

彼の悲しみを知った叔母の倭姫(ヤマトヒメ)は、

苛酷な旅へとむかう彼を慰め伊勢の神宝である“剣”と小さな“袋”を与えるのでした。

 

旅立った敵地で言葉たくみに誘い出されたヤマトタケルは、

草原で火責めにあい窮地にたたされます。

 

 

 「ヤマトタケル」 歌川国芳版画 江戸時代 wikipediaより

 

そこで叔母より授かった剣を抜いて周りの草を刈り、

剣の根元に結んでおいた袋から火打石を取り出して新たな火をおこし

敵の火勢を押し返して難を逃れるのでした。

 

 

この一件からヤマトタケルの剣は“草薙の剣”と呼ばれ、

現代まで皇室に脈々と続く三種の神器の一つとなるのですが、

この剣と火打ち袋を手渡されたおかげで彼は命を永らえることができたのです。

 

この「古事記」の物語にあやかり、

戦国時代の戦に旅立つ武士達はお守りとして必ず

家伝の火打ち袋を携えていったと伝えられます。

 

~火打ち袋~

マッチやライターなどの便利な火付け道具がまだなかった江戸時代、

行軍や旅路へとむかう人々が大切に携えていったのは“火打ち袋”でした。

袋の中には、火打ち金・火打石

そして火口(ほくち)となるガマやカヤ(白い綿毛をつけるイネ科の多年草)の穂などがおさめられ、

鋼鉄の火打ち金と硬い石を打ち合わせることで

飛び散る火花を植物の綿毛に移して火をおこす仕組みです。

 

マッチが日本で初めて作られるようになったのは、

明治維新によって鎖国が解かれた後の明治8年だったといわれていますので、

人々にとって火を生み出す火打ち道具は

じつに大切なものだったことでしょう。

 

当時の男性は、錦や唐木綿・更紗・ビロードなどの布地のほか、

革や籐製など様々な素材を用いて袋を製作しました。

火打ち袋は、袋を綴じる紐の先端に根付をつけ

腰紐に通しぶら下げるようにして身につけますが、

 

象牙や黒檀・柘植製の根付には粋な彫刻がほどこされ、

当時の男性の美学がこめられるようになります。

 

 

復元された 「今川義元の火打ち袋」

復元された今川義元の火打ち袋

「嚢物(ふくろもの)の世界」平野英夫著より

 

 

復元された駿河(静岡県)の戦国武将・今川義元が所蔵していたといわれる火打ち袋は、

白いなめし革製で緒締めには古墳時代の管玉が、

根付には象牙か動物の骨と思われる当時流行した丸環が使用されています。

さすが後世に名を残す武将だけあり、

大変に趣味の良いデザインですね。

 

またこの袋表には、

漆で和歌が一首と平安時代の歌人であり三十六歌仙の一人でもあった源公忠(みなもとのきんただ)朝臣の名前が書かれています。

 

 

~火打ち袋の香袋~

 

火打ち袋の香袋

「火打ち袋の香袋」 宮沢敏子制作

江戸時代の「火打ち袋」の意匠を復元し

香袋として製作してみましょう。

表地には丁子を何度も染め重ねた“香色”の裂地を、

中布には淡い水色の絹を用いて仕立てます。

江戸時代に流行した赤味をふくんだ茶色の紐を“封じ結び”で飾り、

可愛らしいツゲ製の片折れ耳ウサギの根付と

トロンとした緑色の輝きが魅惑的な翡翠玉を緒締めに用いています。

 

 

香材料

排草香  10グラム

丁子   小匙半分

桂皮   小匙1

龍脳   ひとつまみ

中に詰める香料の主材料に選んだのは中国原産の“排草香(はいそうこう)”とよばれる植物で、

とくに根の部分に高い香気を抱いています。

細かい根がからみあう土混じりの香料をほぐしていると、

力強い大地の香りに包まれます。

その芳香は、香木のような落ち着きのなかにもスッとした清涼感が感じられ、

足元にある土の中にこんな神秘的な香りが秘められていることに驚かされることでしょう。

この香料は、匂い袋のほか粉末にして練り香やお線香の材料としても使われています。

排草香(はいそうこう) 拝草香

 

それでは香料を調合していきましょう。

短くカットした排草香に、

乳鉢で砕いた丁子と

和製シナモンともいわれ甘みの中にピリッとした辛みを含む桂皮をあわせ、

最後に防虫効果の高い龍脳の結晶を加えます。

 

それぞれの個性ある香りがお互いを引き立てあい、

たくましくも心地良い芳香に仕上がりました。

 

 

 

 

 

2018年04月15日 up date
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