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ブログ更新 その85「受け継がれる日本の暮らし~包む~1」

2018年4月

 

受け継がれる日本の暮らし ~包む~ ①

 

~日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の火打ち袋~

袋物の歴史をさかのぼっていくと、

「古事記」の中にすでに登場していますのでご紹介しましょう。

 

大和国の帝の子として生まれたヤマトタケルノミコトは、

ある日父が妻に迎えようと考えていた姫を

自分の妻にしてしまった兄のもとに行くよう命ぜられます。

諭すだけで良かったものを武勇に秀で激しい気性をもっていたヤマトタケルは、

いきおい兄の手足をもぎり厠に投げ込んで殺してしまうのでした。

そのことを知った帝は彼の力を恐れるばかりか忌み嫌うようになり、

東国征伐の命を授けます。

 

大和の国に従わない僻地へと征伐に赴くことは、

死罪にも等しい仕打ちでした。

愛する父への思慕が深かったヤマトタケルは、

このむごい扱いに苦しみ嘆きます。

彼の悲しみを知った叔母の倭姫(ヤマトヒメ)は、

苛酷な旅へとむかう彼を慰め伊勢の神宝である“剣”と小さな“袋”を与えるのでした。

 

旅立った敵地で言葉たくみに誘い出されたヤマトタケルは、

草原で火責めにあい窮地にたたされます。

 

 

 「ヤマトタケル」 歌川国芳版画 江戸時代 wikipediaより

 

そこで叔母より授かった剣を抜いて周りの草を刈り、

剣の根元に結んでおいた袋から火打石を取り出して新たな火をおこし

敵の火勢を押し返して難を逃れるのでした。

 

 

この一件からヤマトタケルの剣は“草薙の剣”と呼ばれ、

現代まで皇室に脈々と続く三種の神器の一つとなるのですが、

この剣と火打ち袋を手渡されたおかげで彼は命を永らえることができたのです。

 

この「古事記」の物語にあやかり、

戦国時代の戦に旅立つ武士達はお守りとして必ず

家伝の火打ち袋を携えていったと伝えられます。

 

~火打ち袋~

マッチやライターなどの便利な火付け道具がまだなかった江戸時代、

行軍や旅路へとむかう人々が大切に携えていったのは“火打ち袋”でした。

袋の中には、火打ち金・火打石

そして火口(ほくち)となるガマやカヤ(白い綿毛をつけるイネ科の多年草)の穂などがおさめられ、

鋼鉄の火打ち金と硬い石を打ち合わせることで

飛び散る火花を植物の綿毛に移して火をおこす仕組みです。

 

マッチが日本で初めて作られるようになったのは、

明治維新によって鎖国が解かれた後の明治8年だったといわれていますので、

人々にとって火を生み出す火打ち道具は

じつに大切なものだったことでしょう。

 

当時の男性は、錦や唐木綿・更紗・ビロードなどの布地のほか、

革や籐製など様々な素材を用いて袋を製作しました。

火打ち袋は、袋を綴じる紐の先端に根付をつけ

腰紐に通しぶら下げるようにして身につけますが、

 

象牙や黒檀・柘植製の根付には粋な彫刻がほどこされ、

当時の男性の美学がこめられるようになります。

 

 

復元された 「今川義元の火打ち袋」

復元された今川義元の火打ち袋

「嚢物(ふくろもの)の世界」平野英夫著より

 

 

復元された駿河(静岡県)の戦国武将・今川義元が所蔵していたといわれる火打ち袋は、

白いなめし革製で緒締めには古墳時代の管玉が、

根付には象牙か動物の骨と思われる当時流行した丸環が使用されています。

さすが後世に名を残す武将だけあり、

大変に趣味の良いデザインですね。

 

またこの袋表には、

漆で和歌が一首と平安時代の歌人であり三十六歌仙の一人でもあった源公忠(みなもとのきんただ)朝臣の名前が書かれています。

 

 

~火打ち袋の香袋~

 

火打ち袋の香袋

「火打ち袋の香袋」 宮沢敏子制作

江戸時代の「火打ち袋」の意匠を復元し

香袋として製作してみましょう。

表地には丁子を何度も染め重ねた“香色”の裂地を、

中布には淡い水色の絹を用いて仕立てます。

江戸時代に流行した赤味をふくんだ茶色の紐を“封じ結び”で飾り、

可愛らしいツゲ製の片折れ耳ウサギの根付と

トロンとした緑色の輝きが魅惑的な翡翠玉を緒締めに用いています。

 

 

香材料

排草香  10グラム

丁子   小匙半分

桂皮   小匙1

龍脳   ひとつまみ

中に詰める香料の主材料に選んだのは中国原産の“排草香(はいそうこう)”とよばれる植物で、

とくに根の部分に高い香気を抱いています。

細かい根がからみあう土混じりの香料をほぐしていると、

力強い大地の香りに包まれます。

その芳香は、香木のような落ち着きのなかにもスッとした清涼感が感じられ、

足元にある土の中にこんな神秘的な香りが秘められていることに驚かされることでしょう。

この香料は、匂い袋のほか粉末にして練り香やお線香の材料としても使われています。

排草香(はいそうこう) 拝草香

 

それでは香料を調合していきましょう。

短くカットした排草香に、

乳鉢で砕いた丁子と

和製シナモンともいわれ甘みの中にピリッとした辛みを含む桂皮をあわせ、

最後に防虫効果の高い龍脳の結晶を加えます。

 

それぞれの個性ある香りがお互いを引き立てあい、

たくましくも心地良い芳香に仕上がりました。

 

 

 

 

 

2018年04月15日 up date

ブログ更新 その84「古典植物文様の貝合わせ」

2018年3月12日

 

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幼いころの記憶のひとつに、

砂浜にてんてんと散らばる貝殻を

ひろいあつめた思い出があるかもしれません。

 

それぞれの貝のかたちや色合いには

不思議なおもむきがあり、

未知の世界へと誘うものでした。
平安時代、

宮廷貴族のあいだで流行したあそびのひとつに

「ものあわせ」というものがあります。

 

絵合わせ、花合わせ、扇あわせそして紅葉あわせなど

題材はさまざまに、

持ち寄ったものにちなんだ和歌をそえて

その優劣を競うというものでした。

 

貝合わせも、

当初は和歌とともに貝の大きさや美しさ種類の豊富さ

などを競いましたが、

しだいに対となるハマグリを探すあそびへと発展していきます。

 

お姫様の婚礼調度品には、

夫婦の幸せを願って

豪華な装飾がほどこされた一対の貝桶が用意されました。

 

DSC_1847 桜の香り花びらと金彩貝合わせ

 

 

『貝合わせ』の遊び方

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最初に二枚貝をはずし地貝出し貝に分けておきます。

(二枚貝の頂を上にして合わせ、耳の短い方を自分の方に向けて両手に持ちます。

その時、右手にある貝は出し貝、左手にある貝を地貝といいます。

12個並べハマグリ貝、サスケさんも貝遊びに参加です。)

地貝を12個(天文学より12カ月に由来)をグルッと丸く並べ、

その外側には19個(7曜日を加えた数)を並べ、

さらに3周目4周目と計360個(1年の日数)の地貝を9列に並べます。

次に出し貝を一つ取り出して中央に置き、

その貝の形や大きさ・模様を見比べて対となる地貝を探し出します。

双方の貝を合わせピタッと合わさりましたら絵柄を公開し、

開いて伏せ自分の膝前におさめその数を競います。

このようにして対となる貝殻を探し当てるお遊びが貝合わせで

正式には「貝覆い(かいおおい」)と呼ばれましたが後に総称されます。

ちょうど女性の手の平におさまり

絵柄も描きやすいハマグリは、

伊勢二見産のものが最良とされました。

「伊勢桑名の焼蛤」という名言が残っているよううに

三重県伊勢の蛤はたいへん上質で将軍家にも献上されていました。

三年物で4~5㎝、七年物で6センチほどに成長するといわれる蛤ですが

七年物10粒で8000円という高級食材である蛤はたいへん高価なので

最近では中国産のものも出回っていますが、

貝合わせに用いる蛤はやはり国産のものが最良といわれています。

『潮干のつと』(喜多川歌麿、1790年)に出てくる貝合わせ図

 

 

 

貝合わせの絵柄には、

源氏物語や伊勢物語などの場面を描いたものや

美しい風景、植物、和歌など様々なものがあり、

貝の内側に和紙を貼り胡粉で下塗りをした上に

金箔や極彩色で仕上げられました。

 

今回は趣深い古典植物の花々の図柄を写しとり、

金彩をほどこされたハマグリに装飾していきましょう。

 

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自作の植物画シールです。

 

(材料)

金彩ハマグリ     二対

古典植物文様シール  2種類を各二枚

脱脂液・ニス

その他、小回りの効く小ハサミ・カッター・キッチンペーパー等

(作り方)

①金彩ハマグリの内側の油分を取りのぞいておきましょう。

脱脂液をつけたキッチンペーパーできれいにふきとります。

②植物文様を丁寧に切り抜きます。

模様の1ミリ外側のラインをカット、ハサミが届かない部分はカッターで切り取ります。

③貝の内側に当てレイアウトを決めます。

シールの紙をはがし手の油がつかないよう端から空気を押し出すように貼っていきます。

④シールをしっかり密着させ、はみ出した部分を切り取ります。(貝の丸みの内側ライン)

⑤最後にニスで仕上げ、完全に乾かしましたら完成です。

 

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今回は「朝顔」と「しゃくなげ」の2点を作製しました。

江戸時代の古典植物画には

何ともいえないレトロな雰囲気が漂います。

 

 

 

 

2018年03月13日 up date

ブログ更新 その83「桜物語3 ~舞い散る桜の香り花びら~」

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2018年2月

舞い散る桜の香り花びら

日本の春の訪れは、

人々に季節の移り変わりを最も印象深く感じさせる時といえるでしょう。

窓辺を照らす光の明るさ、

柔らかい新芽をのぞかせる樹々の梢、

地面に寄り添うように花開く早春花、

何もかもが冬の眠りから目覚め静かにうごき初めます。

そんな春の喜びを桜の花びらに託して飾りましょう。

白い粘土に桜の香りを練りこんで

可憐な香り花びらをつくります。

白い桜も気品あふれ素敵ですが、

赤を少し加えると優しい桜色なるでしょう。

西行法師の愛した吉野の舞い散る桜のように、

ヒラヒラと塗り盆やたたらの器などに飾りましょう。

また和紙に包んでプレゼントしたりお手紙に忍ばせても素敵ですね。

桜の樹の下に立つとつつまれる、

桜独特の“クマリン”のなんとも優しく穏やかな香りが漂います。

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材料    石粉粘土        適宜

      桜のオイル       1滴

      染料(赤)      お好みで1~2滴

      その他 アクリル板の桜型・ワックスペーパー・麺棒・型切りなど

 

作り方

①香りのついた桜の花びらを作るには、最初にお好みの桜の花びら型をアクリル板で切り抜いておきます。

②粘土を少し取り桜のオイルを練り込みましょう。

③さらに染料を直接垂らして粘土の内側に練りこむようにして色付けし、

ほどよい混ざり具合でストップしてください。

④麺棒で薄くのばし桜型を当てて切りとします。

⑤丁寧にはがして手に取り、

花ビラの芯の部分を摘みさらに全体を優しくよじるようにひねって形を整え乾燥させましょう。

 

※作業はワックスペーパーのうえで行うと、はがす時に綺麗にはがせ作業がしやすいでしょう。

花ビラに少しひねりを加えておくと優美な感じに仕上がります。

また、粘土は薄く成型するほどに繊細な花びらになりますので、ぜひとも挑戦してみてください。

 

可愛らしいピンクの桜・大人っぽい白い桜・妖艶な薄墨桜、あなたはどの様な桜がお好きでしょうか・・・。

 

 

 

 

桜のお酒

 

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桜茶に使われる桜の塩漬けを用いて、

春の日の祝い酒をつくりましょう。

枝先の桜が風に吹かれユラユラとなびくかのような花びら酒、

口に含むとほんのりと香りたち

心まで桜色に染めてくれかのようですね。

 

 

 

 

桜ゼリー・桜ジンジャエールなども美味ですが、

私のおすすめはシンプルなお湯割りです。

 

まだまだ寒い季節、熱いお湯を注いだ香り高い桜酒で、

やさしく身体を温めてください。

 

2018年02月09日 up date

ブログ更新 その82「桜物語2 ~松尾芭蕉~」

後世にいたり

“松尾芭蕉”を漂白の旅へといざなったのも

西行法師のそうした生涯でした。

 

俳句の師にあまんじている己に危惧感をつのらせた松尾芭蕉は、

自らの内面を尊敬する西行のような高みにまで引き上げることを祈願し

1684年、大和から吉野・尾張へと旅立ちます。

 

秋の日、吉野山へとたどりついた芭蕉の脳裏には、

花の姿は見えずとも香りほのかに柔らかく

そして静かに咲きほこる桜の花が浮かび上がってきたことでしょう。

 

西行の草庵を見詰め

残光のように漂う偉人の気配を感じながら、

生涯を旅と歌に捧げた西行に対する憧憬をつのらせたのかもしれません。

 

松尾芭蕉像(葛飾北斎画)

 

 

この旅で「野ざらし紀行」を記した芭蕉は

その後、西行没後500年を機に

1689年、東北から北陸をめぐる巡礼の旅へ旅立ちます。

人生50年といわれた江戸時代、

40代後半を迎え病気がちだったにもかかわらず

住まいであった芭蕉庵を売り払っていどんだ俳諧の旅は、

じつに多くの名句を生み出し「奥の細道」として編纂されました。

 

「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の後」岩手県平泉

「閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」山形県立石寺

「五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川」山形県大石田町

『荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」新潟県出雲崎

『奥の細道』より

 

Basho by Morikawa Kyoriku (1656-1715).jpg

「奥の細道行脚之図」、芭蕉(左)と曾良森川許六作)

 

その後も旅への執着衰えることはなく挑み続けた芭蕉でしたが、

次第に病に伏すことが多くなり

 

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

 

の句を最後に1694年静かに息を引きとるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

2018年02月09日 up date

ブログ更新 その81「桜物語1 ~西行桜~」

2018年2月

 

奈良県吉野山

4月初旬から末にかけ下千本から奥千本へと山桜が開花してゆく

 

 

春の日を淡くいろどる桜の花は、

見るものの心をなごませ

この国に生まれた幸せを感じさせてくれる存在といえるでしょう。

 

日本の野山には、もともと野生種である山桜が自生していました。

 

桜の名所といわれる奈良県吉野山には、

平安時代の歌人“西行法師”がむすんだ小さな庵があります。

 

吉野山はその昔、

“役小角(えんのおづぬ)”が桜の樹に蔵王権現をきざんだことにより、

桜がご神木としてあがめられるようになりました。

その後、修験道の聖地となった吉野には桜の苗木をたずさえて参詣する人が多くなり、

現在のような麗しい景色へと移り変わっていったのです。

 

役行者像(五流尊瀧院)

 

役小角(えんのおづぬ) 飛鳥時代の呪術者・山伏の元祖

修験道(山岳修行)の開祖とされ鬼神を操る霊力をもつと伝わる

 

 

平安時代末の乱世に生まれ、

生きることに無常観をつのらせていった西行法師は

23歳の若さで出家の道を選びます。

そしてどの宗派にも属さず、

山里の庵にひとり住み孤独の中で心の安らぎを求めるのでした。

 

吉野山最奥にある金峰神社近くの小さな西行庵

 

春になると山々を優しく染める山桜は

西行にとってただ美しいだけのものではありませんでした。

咲き誇りそしてハラハラと散りゆくその姿に、

みずからの心情を託しじつに多くの歌を詠んだのです。

 

「花に染む 心のいかで のこりけむ 

                 捨て果ててきと 思ふわが身に」

“現世での執着を捨て去ったと思うわが身なのに

なぜこれほどまでに桜の花に心を奪われるのでしょうか”

 

「ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば

                 散る別れこそ 悲しかりけれ」

“ずっと眺めていたからでしょうか。情がうつってしまったようです。

散りゆく桜の姿が悲しくてなりません”

 

決まり事にとらわれず

自分の弱さや戸惑う心を素直に詠んだ西行法師の和歌のかたちは、

俗語を用いてもなお気品をそこなわず独特の抒情感を生みだし

当時の歌壇中心人物らに大きな影響をあたえることになります。

 

鞍馬、高野山、伊勢など心のおもむくまま諸国を巡った西行は、

1190年2月16日73歳でこの世を去りましたが、

終焉の地もやはり修験道の開祖といわれる役小角が開いた大阪河内の弘川寺でした。

 

空海そして行基も修行したといわれるこの寺の裏山にむすんだ小さな庵で、病に伏し亡くなるのです。

 

~和歌を一首詠むのは、仏像を一体彫るのと同義~

 

と語ったことからわかるように、

歌作りは仏道修行の一環でもあったのでしょう。

 

また、西行は没する数十年前にこのような和歌を残していました。

 

「願はくは 花に下にて 春死なん

                 そのきさらぎの 望月のころ」

“願いが叶うものならば満開の桜の下で死にたいものです。

お釈迦様が入滅されたという如月の望月の頃に(2月15日)”

 

その願いどおり2月16日の桜の盛りに終焉を迎えたことで、

西行の生きざまは人々にさらなる感動を与えることになります。

誰にも邪魔されず心ゆくまでながめた桜の姿は、

人生の様々な場面と重なって見えたことでしょう。

これより桜は植物という枠を超え、

日本人の死生観にまで入りこむ特別な存在となっていくのです。

 

 

 

2018年02月09日 up date
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